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妖刀と伝えられた村正

1579年(天正7年)の9月15日、岡崎三郎信康(のぶやす)が、遠州二股城で自害をしました。信康は徳川家康の長男であり、織田信長の娘婿です。家康の方の生母と共に、甲斐の武田勝頼に内通しているのではないかと信長に疑惑を持たれたために、強引に自殺を強要されたのです。家康の長男であり信長の娘婿でありながら、悪事の訴状をもって戦国の非常なルールに従ってのことでした。訴状を受け取った家康は、妻を殺させるのは簡単でも、信康についてはなかなか決行できずにいました。日を延ばし続けていましたが、やがて織田信長不興と伝えられてしまい、さすがに誤魔化せなくなったため、二股城へ検分・介錯役を差し向けました。この役目を持っていたのが、服部半蔵と、天方通経であった。信康は半蔵に介錯を頼んで割腹したが、半蔵は涙を流すばかりでなかなか刀を下ろせず、結局は苦しむ姿を見かねた天方通経が代わって介錯をしたそうです。両名は涙ながらに、家康に信康の最期を伝えました。聞いていた家康ですが、介錯に使った刀を尋ねて村正であったことを知ると、家康はすぐに「当家に障る事かな、この後は差料の中に村正あらば皆取り捨てろ」と命じます。家康の祖父である清康は村正の刀で左の脇を斬られており、それから父の広忠も家臣の持っていた村正に暗殺されています。そして家康もまた、子供の頃に村正の短刀で手を傷つけていたそうです。愛する長男の介錯に使った刀が村正と聞いて、村正を捨てろと命じたのも無理ないことかもしれません。家康の物語は、名刀である村正の運命を決めました。これによって、村正は不吉な妖刀として語り継がれてしまうのです。これらは徳川実紀にて伝えられています。