時代と共に戦闘の方法も変わっていき、同時に武器として使われていた日本刀の形にも変化が現れていました。戦闘方法としては特に大きく変わったこととして、一騎打ちから接近戦に変わったことがあります。元々日本での戦闘方法は、馬に乗っての一騎打ちである個人戦法が主流とされてきました。しかし、文永・弘安の役(モンゴル軍の襲来)を受けたことを転機として、大きく変化していきました。今までは馬に乗った状態で戦っていましたが、機動面を重視した、徒戦(徒歩で行う戦闘・かちいくさ)が主流になっていきました。そのため、武器は弓矢よりも太刀や薙刀が多く使われるようになり、自然と接近戦に変わっていったと言われています。戦闘法が変化したことにより、武器として使われる太刀もまた、従来の軽薄なものから、戦えるよう重厚なものに変化していきました。拵に関しても、黒漆太刀をはじめとして、革包太刀(かわつつみたち)など、堅牢なものが作られるようになりました。革包太刀は、柄の部分を鮫皮や革などで包んで、上から漆を塗っています。その上から革紐や組糸できつく巻きしめて、鞘は全体を革で包んで、こちらも同じく腰に当たる部分を革や組糸で巻いて固めています。とにかく頑丈さを求めた結果と言えるでしょう。黒漆太刀をベースとした作り方になっており、要所の特徴を真似て製作しています。従来の太刀拵と比べると、飾りよりも刀としての強さを採用していると考えられています。革包太刀は、最も古いものでは鎌倉時代の末期と推測されており、新しいものでは大永余念と考えられています。この間はおよそ250年とされており、実戦で使われる刀として、非常に長く主力として扱われてきたことが分かります。
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